友達が逝った。
大学のクラスメイトだった彼
私が夏休みにアルバイトで通った内装施工会社はきつかった。
先輩が管理をしていたので雑用だった。終始清掃し搬入し墨出しをする。
コンクリートの残材40kgを十何往復、しかも階段
プラスたーボード4枚を同じく階段で下げ下ろし。
指が切れそうで、腕の筋は延びきる。でも放すわけにはいかない。
歯を食いしばって作業
そんなバイトをするとその会社への就職もしやすくなるのだが
苦しすぎたのが・・・何故か、そこへは入らなかった。
友達は最後まで就職を決めず、結局その内装会社に入った。
因果なものだ。
彼は現場を十分をやり、その後設計部に移る。
僕もそのころ別の会社で同じように施工を現場を経験し設計をしていた。
彼の作品がはじめて商店建築に載った。ばだ20代だったので羨ましく悔しくもあった。
それは新横浜のビルのメガネ店だった。
今でも新幹線の出張でそのビルを横切る度に彼とそのショップを思い出してる。
これはこれからも続くだろう。
当時インテリデザインもナイジェルコーツなんかも出てきていて綺麗な路線から
少し古びたものも出てきた。古い材料をつかったり、わざと古くさせる手法が出てきたのもこの頃
私は当時CRISPという古着やさんをその手法でデザインしていた。
彼は新宿の洋服店2をデザインし注目され、その後上野の古着屋さんの店舗など手がけ
綺麗な路線から少し男っぽい世界観に傾倒していったように見えた。
私はアパレルを主に設計していたが、その店舗が短命なのと、施主やコンシューマーの気持ちが
伝わらない部分に疑問を感じていたし、その会社での成長に限界を感じていたので
もっと大きい商業施設開発に携われるべく今の会社の移った。
実質的にはペンは折り、パソコンと向かいPM(プロジェクトマネージャー)として全体を推進していく
業についた。
彼はその後独立し地道に店舗設計をして、ELLEデコで紹介されるくらいになった。
その後、彼の友人と彼は東京のカフェブームを生むことになる。
駒沢大学につくったお店は今は知らない人が居ないくらい有名になった。
その後この2人は次々を時代をリードするお店を作ることになる。
当時彼が設計中だった原宿のカフェの建築技術や業者さんの相談など電話やメールでしていたことが懐かしい。
昨日はその店で1人飲んだ。ひとつひとつのディテールに刻まれた彼の感覚をトレースした。
彼のデテールや均整は当時の一般敵なデザインセンスとは少し違っていた。
何か違和感を感じる寸法配分を持っていた。
これは横浜のメガネ店でみた肥大した什器。
新宿のファッション店にみる不恰好とも思える(彼は人懐こいと呼んだ)什器
なぜこの寸法を選ぶのか・・当時じは理解できなかった。
今見るとなんというのか、時代が彼に追い付いたと言うのか
彼が時代を作ったというのか、この感覚は新常識になっていると感じる。
2005年私も数多くのプロジェクトをこなし、ようやく自分の企画を自由にハンドリングできる立場になってきた。
当時事業コンペがあり、インテリアデザイナーを探していた。
私の中では黒川勉さんの名が浮かんでいた。彼は尊敬する杉本貴志さんの事務所OBで独立し
独自でややサブカル臭を持つエッジの効いたデザインをされていた。
パーティで名刺交換はしていたものの、まずはどれかに紹介してもらおうと思い
思いついたのが友人の彼だ。
まず電話をし
「黒川さんに仕事頼みたいなぁと思っているんだけど」と話すと
「俺もいいデザインするよ、俺やるよ、それ」
友達に仕事を頼むはどうかなぁと思いつつ、既に原宿のカフェも出来上がり
その完成度も斬新さも、そしていつもの通り、微妙な違和感を持つそれは特に
ファッション関連でも知名度があがっており、半分は掛けな部分もありつつ
会社へは友人であることはあまり言わずビジネステイクに進めると心に決め
彼に依頼しようと決めた。
今思えば彼に頼んで本当によかったと思う。
私の作った空間とビジネスコンセプトに彼のデザインコンセプトを合わせプレゼンは
他競合を抑え事業コンペを勝ち取った。
しかし、いや実は私が黒川さんに依頼しようと思っていた世界観と彼に再現してほしかった
それに近い世界観と彼のデザインしたそれは180度の違いがあった。
でも、新しい世界を作るということは異聞の中にないものへの接触だから
そう言い聞かせ、そこからも苦労しつつ開業まで何度も何度も彼の事務所で打ち合わせをした。
私の設計時代は鉛筆時代、パースは手書き
今の会社に入るころにCADが常識になってきた。
それか何年かが建って彼と一緒に仕事をしたのだが、彼の事務所はどの事務所よりも
CADとCADパースを軽々と、そして何枚も何枚も書き上げた。
彼の仕事のやり方を真近でみて思ったのは、当時パースは1枚書くのに10万以上で
1案件でも数枚がせいぜいが常識
しかし彼はスタッフにCADパース何枚も書かせて、それでかなりリアイティをもって、感覚的な部分も
合わせ直感でも判断できるようにしていた。
図面での判断は時としてリアル実寸法や空間において、どう見えるかが分かり辛いからだ。
100以上に及ぶパース・・・ダメだしの連続
そのやりとりを通じて、彼の一流のこだわりを感じることができた。
そうそう、このプロジェクトでは北京への工場視察を2人で行ったので
楽しい思い出も合わさっている。
ペキンダッグとエビチリと紹興酒、水を飲んでの腹痛、まだ雲ばかりでほこりっぽい北京の街
フートンの中の古い官僚邸を改修したデザインホテル・・・
男2人の珍道中は結構楽しかった。
このプロジェクトは今までも見たことのないような斬新な真っ白い空間でデビューした。
グッドドデザイン賞も受賞した。
数年後、新宿の某シネマは彼のデザインをかなり模倣したのは何とも言えない
新しいものは真似られる、しかし・・・
真っ白な映画館を日本で初めてつくったのは新宿の某シネマではなく
埼玉の商業施設にある真っ白なシネマが最初である。
昨日は彼のデザインした店1件では済まず、もう1件原宿にある看板のないカフェにいった。
金曜のよるで満席だったが「1人で1杯だけ飲ませてくれる?カウンターでもどこでもいいから」
と頼むと3階の席にならない席をあけてくれた。
誰の目線とも絡まないその場所で思い出したのは
このカフェのオープニングパーテイの光景だ。
日本の有名建築家、インテリアデザイナー、クリエイターがフロア階段隅の隅まで、足の置き場のない
ほど来ていた。
この席はあの時はDJはトウワさんだったと思うけど、ここは、そのDJブースの横の席
あの時はここも人だかりで森田さんや片山さんがこの辺で飲んでたような記憶がある。
今見るとあの時にみえなかった彼のディテールがぼんやりと浮かび上がった。
とても低い幅木、不思議な高さにあるレトロなブラケットライト、パイプでレリーフを抜いたコンクリート打ち放しの壁・・・
いいな、こうやって空間が残っていれば彼の息吹を感じることができる。
この空間は彼の集大成だ。
彼は空間にこめた思いは残っている、これからも残る、そう、また、彼のデザインと会話できる場所がある。
友よ、ありがとう。